株式会社 千本銘木商会
木林学ことはじめ
木林学という言葉は造語です。木に携わる人々の叡智、伝統、技術は本当に素晴らしく、建築・家具・道具・工芸などの銘木、木材の世界を、もし学問に例えるならばと名付けたのが、木林学です。上から二文字組み合わせると「森」になり、やがてひとつずつの木になるんだよという意味も込めています。
 はじめに
日本は国土の約7割を森林が占める、緑多き国と言える。ところが近年、森林や木材をめぐる状況が著しく変化している。生活する上で自然への関心が薄れ、古来の国産材の種類も忘れられている。森と木のために、今何が出来るだろうと考える時、私の自然界から学ぶ「木の世界」探求の旅がはじまる…。
木林学ことはじめは、京都新聞火曜日朝刊にて、平成15年4月から平成16年6月までの約1年3ヶ月全54回にわたって連載させていただいておりましたコラムです。こちらでは、その幾つかを京都新聞社様のご厚意で再掲載させて頂いています。

第1回
木の目利きになりたい
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第3回
杉花粉の悲鳴
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第9回
床の間ってなぁに?
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第21回
黄門さまの杖
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第28回
龍馬と嘉兵衛
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第34回
木を語る情報源
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第53回
京料理のまな板
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第54回
心の樹
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 第1回・木の目利きになりたい -生命教えられた松の年輪
  幼いころ、祖父に連れられてよく木を見に行った。比叡山の寺につながる林道のスンスンと伸びた杉や檜、中川・細野地方の北山杉、堀川の銀杏、青蓮院の大楠、円山公園の技垂れ桜、賀茂街道の楠と桜並木、今は無いが御地通の欅(けやき)並木などを見ながら歩いた。

  木の目利きと呼ばれた祖父は、社寺仏閣や幼い私や妹でも行ける山道を散策するのがお気に入りで、遊びと称して、木に抱きついて木中の音聞きごっこをした。木は生きていて、必ず声を持っている。
  雨の日のあとは水を吸い上げる音がサーザー響いた。風にたなびく枝先の音が騒がしくなると急に天気が悪くなったり、風も無く木が静まり返ると、それが雪のまえぶれだったり…。

  特に、祖父の残したもので木の生命力を教えられたのが、山陰産の「松の年輪」。十五年ほど前に祖父が見つけてきたもので、当時、創業二百七十年の祝いに合わせて、年輪も約二百八十重ねている。年輪は一年で一つできる。つまり松は二百八十年以上生きていたことになる。

  十五年前に一度、八年前にも一度、職人が手カンナをかけて表面を削ったにもかかわらず、いまだに松はジワリと松脂(まつやに)を出している。製材して二十年以上たつ松の生命。

  生命ある木を見いだすことは木の文化を知ろうとする、第一歩なのだと語りかけてくれる。
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 第3回・杉花粉の悲鳴 -温暖化で自然界が激変
  九州・熊本に行った時、杉花粉が黄色の風になって流れていくのを見た。
  新聞やテレビが杉花粉情報を流すほど、花粉症患者は多く、春から夏にかけて、私の友人たちにも、化粉症対策のマスク愛用者や鼻水止めの薬に頼る人が目立つ。

  なぜ、こんなに杉花粉が問題になるのだろう。
  このごろ、杉を見ていると、温暖化により成長が促進され、登頂傾向(太陽に向かって上に上に伸びること)が進んでいるように思う。

  温暖化の影響だけではない。通路がアスファルト舗装されて、花粉が沈着する揚所がなくなった。戦後、大量に植樹された杉、檜が、ちょうど花粉をまく樹齢に成長したが、山仕事の人手が足りず手入れが行き渡らない。日本人の免疫力が極度に低下した。原因はいくつも考えられ、杉花粉が飛び散る現状は来るベくして来たという感じがする。

  私たちが知らない間に自然界が激変している。杉たちが「生命の危機」と叫ぶ声が、花粉となって飛び散っているように思われてならない。

  ところで、よく「材木屋さんは花粉症にならないの?」と尋ねられる。かかる人は少いようだが…。高雄の材木屋で友人のN君は」今年も花粉症で辛そう。

  どうやら、職業と花粉症とは関係ないようてす。
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 第9回・床の間ってなあに? -日本人独自の建築文化
  読者の方から、「床の間ってなあに?」という質問をいただいた。これは簡単なようでとても難しい質問。
  大変驚いたが、最近は和室が無いお宅もあるだろう。
日本の座敷には大きさにこだわらず「床の間」があった。四季の移ろいを表す草花を飾り、大切な掛物や置物を配置して愛でた。世界に誇れる日本人独自の建築・生活文化と言えるだろう。

  ところが「床の間」の歴史は諸説あり、完全には解明されていない。前久夫先生著「床の間のはなし』(鹿島出版会)によると、その原型の誕生は中世、しかも今日のような意味、形式を持つようになったのは、せいぜい桃山時代以降という。

  では床の間の基本的な形はというと、大体は図のようになるが、もともと趣向や家の雰囲気に合わせて造作するため、百人百通りある。つまり、完全な床の間の作り方マニュアルが存在しなかったこと、床の間を持つゆとりの間取りができなかったことなどから現在の住宅に普及しなかったのではないだろうか。

  まずは部位名称を読めるか挑戦してもらいたい。床柱、床框(とこがまち)に落掛(おとしがけ)、長押(なげし)天井をぐるりと囲む廻縁(まわりぶち)に、竿縁(さおぶち)、それに違棚(ちがいだな)。
   床の間の善しあしは、上等な銘木を使っていることや意匠が凝っていることではない。床の間の前に座る時、何か懐かしく、癒やされるような、精神的に引き込まれていく小宇宙のごとく感じさせること。

  その中で、木の取り合わせの妙を見せることこそ銘木屋の腕の見せどころと思う。
床の間のイラスト
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 第21回・黄門さまの杖 -34年間「亀甲竹」変わらず
  「人生楽ありゃ−苦もあるさ−」は、ご存じ水戸黄門さまのテーマソング。この曲を聴くと、どなたも黄門様が
杖をつき助さん、格さんをお供に全国を旅されるお姿を思い出されると思います。

  あの黄門さまの杖、よく見ると艶があり、独特な膨みのある形をしている。
実は銘竹の「亀甲竹(きっこうちく)」。亀甲竹は孟宗竹(もうそうちく)の変種で、自然然にできた亀の甲羅のような膨らみを持ち、あまり数の採れない竹。床の間の柱や落掛(おとしがけ)に使われ、小ぶりのものは、茶道具や工芸品にも使われる。

  さて、歴史上の水戸光圀翁が使っていたのは不老長寿の「藜(あかざ)」の杖という。藜は中国から渡来した植物で、この茎と根の部分を杖にして使われていた。テレビの黄門様は時代劇なので、立ち回りには折れやすい藜は使えない。番組ができる前、ずいぶん杖の候補を探し、1ヶ月間試行錯誤して、名前からしても縁起の良い亀甲竹が選ばれたと、番組製作のKさんから伺った。番組は昭和四十四年に誕生したが、黄門様の小道具の中で三十四年間変更が無いのは、印籠と杖だけだそうだ。

  現在、五代目黄門様の里見浩太朗さんは、歴代の黄門様よりも背が高いので、杖の長さもやや長めである。形は、持つ手のあたりから先がまっすぐに細くなり、堅い亀甲竹が選ばれる。堅さは立ち回りの時の音に影響する。取り扱うY竹材店は、年間通して黄門様の杖を探しておくそうだ。

  亀甲竹は、十二月二十五日で千回放映を迎える黄門様の、旅に連れ添う渋い脇役といえるだろう。
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 第28回・龍馬と嘉兵衛 -わが家に投宿墓参欠かさず
  私の店は屋号を「酢屋(すや)」という。別に酢を販売していた訳ではなく、家業は銘木屋で、代々の当主は「嘉兵衛(かへえ)」という名を縦いでいく。

  幕末のころ六代目嘉兵衛は、材木商の傍ら許可を得て高瀬川で舟による運搬業も進めた。
そんな時にわが家に滞在していたのが坂本龍馬だ。
龍馬はなぜわが家に投宿したのか。理由は、六代目が倒幕運動に理解を示していたことや、店が舟入にあって藩邸との往来や情報収集に適していたことが考えられる。

  「銘木屋」という店が誕生したのも、このころと言われている。材木屋が家を建てる構造部材を扱うのに対し、銘木屋は内装化粧材を扱う。一般材は束などで売られるが、銘木は一本、一枚単位で取引される。京都は室町時代から茶室の建築が盛んだったため、早くから北山杉を扱う丸太屋、黒檀(こくたん)や紫檀(したん)を扱う唐木屋(からきや)、床の間材専門の床材屋(とこざいや)と一般材を扱う材木屋に分かれていた。さらに欅(けやき)・杉・松などの専門問屋が現れ、丸太の中でも松や桜、百日紅(さるすべり)、椿(つばき)など扱う変木屋(へんぼくや)が登場する。

  「銘木屋」の言葉が定着するのは明治時代だが、激動の変革期に建築を通して木材の世界もより専門化し、近代化していったのだと思う。

  龍馬と家族同様に付き合い、命懸けで守った六代目は、1867年の龍馬の死後、月初めに必ず墓参りを欠かさなかった。それは代々の当主に引き継がれでいる。龍馬の誕生日で命日でもあった十五日、酢屋には龍馬を弔う祭壇を設けた。龍馬の死から約百四十年、酢屋の周りは若者がかっ歩する街に変ぼうした。

  遺影の龍馬は、変わりゆく京をどんな想いで見ているのだろうか。
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 第34回・木を語る情報源 -材質の良さ年輪で見極め
  木は一年ごとに少しずつ大きくなる。それを如実に示すのが年輪だ。年輪は、すべての木材にあるわけでなく、例えばラワン材など熱帯雨林で成長する木には、はっきりとは見当たらない。逆に言うと年輪や杢目(もくめ)は寒暖の差がある地域の樹木にくっきりと表れる。日本人が年輪や杢目にこだわりを持つのは、気候との関係が背景にあるように思われる。

  樹齢約百二十年の吉野杉の根元を輪切りにした材。年輪のうち赤い部分を「赤身」(赤太、心材)、周りの白いところを「白太」(辺材)と言う。赤身は木を支える背骨のような役割を果たす。白太は成長に伴って後から出来ていく部分で、梢(こずえ)や枝先に水分や養分を運んでいる。樹木が成長していくと、白太の細胞に心材物質が蓄積され、赤身に変わっていくのだという。

  木材として主に利用するのは、密度が高く耐水性に優れている赤身の部分だ。対して白太は軟らかいから虫が入りやすい。日本の建築は、赤身、白太、そして両者が混じった「源平(げんぺい)」を用途に応じてきように使い分ける。

  私たちが原木を使う時は、必ずこの年輪(木口{こぐち}とも言う)を凝視して語りかける。「この辺に節があるな」「風になびいてヒビが入っているのか」「妙に堅そうな部分があるね」などと問いかけ、木が返事をしてくれたら一人前なのだそう。

  私の場合は、まだ人見知りされているようだ。
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 第53回・京料理のまな板 -神聖な道具 素材さまざま
  わが家が食いしん坊だということと、ご近所が老舗の料亭や割烹料理屋さんということもあり、昔からよくまな板の注文を受けたまわる。

  まな板によく使われるのは檜(ひのき)で、高級な懐石専門店やすし屋では「尾州檜(びしゅうひのき)」が一番とされる。
  特にカウンター越しに、調理台の真ん中に特大のまな板が鏡座しているのをご覧になったことはないだろうか?。

  例えば、鰻屋さんの場合は「朴(ほう)」の木を使う。祖父の話では、板の色がやや緑がかっており、鰻をさばくと血の赤がよくわかる。また、関西は鰻に目打ちをするため、まな板に食い込んだ金具を取っても弾力性があり、自然に穴縮むから良いそうだ。和菓子屋さんには干菓子を打ちつけられるように堅い桜のまな板を、お餅屋さんには、柳や栃(とち)など、お店によって、また調理人さんの好みによってまな板の素材が違う。

  まな板は調理人さんにとっては神聖な道具。親方が独立する弟子に何度も削って薄くなったまな板を餞別の品にされると聞いたことがある。また、まな板を購入された時には調理人さんの使い勝手に合わせて角を削ったりする。まな板のメンテナンスも重要だ。

  京都の料理屋さんは、店が治るまでに殺菌消毒のため日当干しをよくしている。写真の薄くなったほうは祖父の時代に納めた檜のまな板、少し節のあるまだまだのまな板は私が用意したものだ。一枚板が京料理のお役に立っているうれしさと代々の用意した板が大切にされ、如実に比べられるので身の引き頼まる思いがする。
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 第54回・心の樹 -上手に育て人生導く
「銘木屋って何するの?」よく耳にする質問だ。

  その質問のたびに、先代(祖父)からの受け売りで「木の命をいただいている仕事」と答えている。わが社は、祖父がつくったた経営方針がある。
「一粒の種が二葉の芽を出し、幾百年の風雪に耐えて、大樹となる。
此大樹より生まれる自然の美を探求する事に誇りを持ち 明るい住居造りに奉仕する」

  木は山から伐採するが、すぐに使える訳ではない皮むき、乾燥など、それぞれの木にあった材になるまでの「養生」が必要だ。木の命を最大限に引き出し生かしてやる。それが銘木屋の仕事だと思う。しかし、現在では木を使う仕事が激減。山や森が荒れ、良材が少なくなった。生活様式も変化して和室が減り、全国的に銘木屋は姿を消しつつある。

  最初の質問のように「銘木」という言葉が通じない時代。どんな形であれ、木に興味を持ち、本当に欲しいと思っている人々に、いろいろな日本の木を紹介し、コーディネートできたならば、私なりの銘木の道が切り開けると信じている。

  昨年四月から一年三カ月、たくさんの方々に支えられた連載「木杯学ことはじめ」を、今回で終了することになりました。ご愛読いただき、本当にありがとうございました。

  最後に祖父直伝ですが、人にはだれしも三本の「心の樹」があり、それを上手に育てると人生が導かれるといいます。その樹は「やる気、根気、負けん気」。
   近年、十代目の母が「勇気、元気」を付け加えて五本になりました。

  どうかへ日本の木の文化を忘れず、皆さんの心の樹が健やかに育つことを願いながら…。
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